付 志賀の都

琵琶湖疏水[(C)大津市産業観光部]
琵琶湖疏水[(C)大津市産業観光部]

さざなみや志賀の都は荒れにしを昔ながらの山桜かな(よみ人知らず)

(訳)志賀の都は荒れてしまったが、昔ながらに長等(ながら)山の山桜は見事に咲いていることだ。

 

 出典は83藤原俊成撰の第七勅撰集『千載和歌集』で「故郷(ふるさと)の花」題。実際の作者は薩摩守・平忠度(ただのり)(清盛の異母弟)。都落ちの際に和歌の師・俊成のもとを訪ね自身の歌稿を託し、俊成が中から一首を「よみ人知らず」として採りあげたという『平家物語』の話で知られる。

 かつての都をさす「故郷」は平安貴族にとっては奈良や吉野であった。天智天皇が都とした「志賀の都」は672年の壬申の乱によりわずか五年で廃都。その十数年後の「近江の荒れたる都を過(す)ぐる時に柿本朝臣人麻呂が作る歌」が『万葉集』に伝わる。この旧都自体が和歌に詠まれることは少なかった。平安時代には「志賀の山越え」に関心が向き、花の名所として多くの歌の舞台となった。平安後期の題詠の時代、「故郷」題が定着する中でようやく顧みられる。その比較的早い作例。古今集の「故郷となりにし奈良の都にも色は変はらず花は咲きけり(旧都となった奈良の都でも昔と変わらず花は咲いているよ)」を踏まえ、「昔ながら」に当地「長等山」を掛ける。85俊恵法師も参加した歌合での作と伝わる。平明だが、源平の争乱で疲弊した京の都とイメージが重なる。

 京阪石山線の近江神宮前駅近くの県道沿いに、天智天皇の宮の置かれた一画が「近江大津宮錦織遺跡」として保存されている。長等山の桜を見ながらたたずむとこの歌の実景を体感できる。

暁星高等学校教諭 青木太朗

比叡山ドライブウェイ[(C)大津市産業観光部]
比叡山ドライブウェイ[(C)大津市産業観光部]