7 天の原ふりさけ見れば春日なる三笠の山に出でし月かも(安倍仲麻呂)
(訳)大空を振り仰いでみたら、春日の三笠の山に出たのと同じ月だよなあ。
717年、20歳だった仲麻呂は遣唐使の一員として、後に右大臣まで上りつめる吉備真備や、聖武天皇の信任厚かった僧・玄昉、今世紀に入り中国でその墓が発見された井真成らとともに入唐。玄宗皇帝に仕え評価をたかめ、同時に李白や王維といった名高い詩人との交流を深めた。733年に真備や玄昉は帰国するが仲麻呂はそのまま唐にとどまり、753年に現在の寧波から帰国することとなる。このとき王維が別れの詩を贈っている。ところが暴風に遭い安南(現在のベトナム)に漂着する。このとき、命を落としたと聞いた李白は追悼の詩をつくった。唐の詩壇での存在感の大きさが知られる。その後、都・長安に戻った仲麻呂は帰国することなく770年に73年の生涯を閉じる。
「天の原ふりさけ見れば」とのうたい出しは万葉集にいくつも残る。歌末「かも」は平安時代には「かな」に置き換わり、やはり古風な言いかた。二句目でいったん区切れる五七調も万葉のリズム。長く日本を離れていても和歌のリズムは染みついていたのであろう。753年の別離の宴での歌と伝わる。入唐以来三十余年、老境の域に入りようやく帰国しようというとき、まだ少年だった頃に毎日のように見た奈良の都、三笠山に浮かぶ月を思い出し、望郷の思いを募らせる。平安時代初期にはすでに伝わっていたその悲劇的な生涯とともに、共感をもって広く愛唱された。