[10]これやこの行くも帰るも別れては知るも知らぬも逢坂の関(蝉丸)
(訳)これがまあ、行く人も帰る人もここで別れて、知る人も知らぬ人もここで逢うという、逢坂の関であったのか。
この地を詠んだ万葉歌は「逢坂をうち出でて見れば近江の海白木綿花に波立ちわたる」の一首のみ。逢坂山を越えると、視界が開けて琵琶湖に白木綿のような白波が立っているという。4「田子の浦に」を彷彿とさせる展開だ。平安時代になり都が遷り、関が整備されたこともあって、「逢坂」の歌は古今集では10首に増える。その全てが「逢ふ」を意識する。この歌の出典は後撰集。詞書には逢坂の関を行き来する人を見て詠んだとある。実景を見ても「逢ふ」を掛けるところに時代の特色が出ている。「これ」「この」の韻に始まり、「行く」と「帰る」、「知る」と「知らぬ」の対比が軽快なリズムを生み、都への玄関口であった関のにぎわいをうたう。後撰集や百人一首の古い本では三句「別れつつ」と伝える。「つつ」は反復の意味を持ち、出会いと別れが繰り返される場であったことが強調される。現在は、京阪京津線の大谷駅近くに蝉丸神社があり、逢坂という地名ともども雰囲気を残している。
蝉丸は逢坂山に住む琵琶の名手という。『今昔物語集』には、「天徳内裏歌合」で講師をつとめた朗詠の名手で琵琶にも通じていた源博雅が蝉丸のもとに三年通い、秘伝の曲を伝授されたという話が伝わる。時代が下るにつれ盲人の琵琶奏者として語り継がれるようになった。