[12]天つ風雲のかよひぢ吹きとぢよをとめの姿しばしとどめむ(僧正遍昭)
(訳)天の風よ、雲間の通り道を吹き閉じておくれ。この天女の姿をしばしここにとどめておきたいので。
五節の舞姫をほめたたえた歌。11月の宮中では、新嘗祭に引き続いて豊明の節会が行われ、その年の収穫を感謝する。そのときに、帝の近臣などから選ばれた未婚の娘4、5人が「五節の舞姫」として舞を披露する。天武天皇が吉野にいたとき、天女が降って舞いを舞ったという伝説が起源のイベント。これを踏まえての「天つ風」だ。舞姫が天に帰らぬように雲のすき間の通り道を閉ざしてくれ、と風に呼びかける。飾り気なしに、もう少し見ていたいので、と言うあたり、何ともすがすがしい。具体的に言わないので、どんなにかわいい姿であったのかと、想像力をかきたてられる。
遍昭は桓武天皇の孫。仁明天皇に仕え信頼も厚かった。帝が亡くなったのを受けて35歳で出家する。後には親王時代から交流の深かった光孝天皇の持僧となる。17在原業平と親しい惟喬親王に和歌を贈るなど、和歌を通しての交際が広く、光孝朝の和歌活動の盛り上がりに大きな役割を果たした。この歌は出家前のもので、古今集には俗名・良岑宗貞の名で入る。遍昭の名でも「女に堕落したと言わないでくれ、「女」という名ある女郎花を折っただけだよ(名にめでて折れるばかりぞ女郎花我落ちにきと人に語るな)」と僧侶らしからぬユーモアあふれる歌を残している。