[20]わびぬれば今はた同じ難波なる身をつくしても逢はむとぞ思ふ(元良親王)
(訳)こんなにも思い苦しんでいるので、今となっては同じことです。あの難波の澪標ではありませんが、どんなに身を尽くしても逢おうと思います。
難波の澪標は船の航路を示す標識。杭を立てて水深が十分である目印とする。和歌では「身を尽くし」と掛けてうたわれるのが常である。出典となった後撰集・恋五には「事出で来て後に、京極の御息所に遣はしける」という詞書がある。「事出で来て」とはふたりの関係が世間に広まったこと。「京極の御息所」は宇多法皇の妃で、左大臣・藤原時平の娘。もともと醍醐天皇のもとに入内するはずだったが父・法皇が見初めたという。それほど寵愛を受けていた相手と関係を持ったのだ。それが世間に知られてしまった。逢っても逢わなくても非難されるのは同じこと。だったら「身を尽くして」、命を懸けてでも逢おうと思う。覚悟を決めた男の悲痛な叫びにも聞こえる一首である。元良親王は13陽成院が退位後にもうけた第一皇子。御息所の返歌は残されていない。
親王の家集『元良親王集』は「たいそう色好みでいらっしゃったので、世の女性で素晴らしいと評判の方には、逢う逢わないに関わりなく手紙を贈り歌を詠みなさいました(いみじき色好みにおはしましければ、世にある女の良しと聞こゆるには、逢ふにも、逢はぬにも、文やり歌詠みつつやり給ふ)」という一文に始まり160首ほどを収める。ほとんどが女性との贈答歌で、相手は20人を超えるという。