[25]名にし負はば逢坂山のさねかづら人に知られでくるよしもがな(三条右大臣)
(訳)「逢う」や「さ寝」と名にあるのならば、逢坂山のさねかずらを人知れず手繰るように、人に知られずに行くすべがあればいいのに。
さねかずらは常緑のつる性植物で冬に赤い実をつける。実=サネが印象的であったことによる名という。それが平安時代の歌人の手にかかると「さ寝」=一緒に寝るとの掛詞になる。「逢う」という名を持つ「逢坂山」に、「寝」を掛けた「さねかづら」と続き、その縁語「繰る」から「来る」に転じる。さねかずらの蔓を人に気づかれずに繰っていくようにあなたのもとに行くすべがあればと願う。カ変動詞「来」は基準となる所に向かうことで、「行く」とも「来る」とも訳せる。ここでは女性を中心に置いている。出典は後撰集・恋三。詞書は「女のもとにつかはしける」。掛詞や縁語を駆使して「逢いたい」と言う。個人的な場であってもストレートに思いをぶつけず、どんなふうに伝えるのかが大事な時代であった。複雑に絡み合ったかずらの蔓は物思いにかられた男の心情を具体的に表わしている。この蔓を歌に添えたと想像したい。
作者は藤原定方。同母の姉妹が醍醐天皇の生母であったことから官途に恵まれる。いとこの27兼輔とともに和歌を好み、35貫之に屏風歌を依頼したこともあった。三人の交流は有名で、後撰集には兼輔の家の「藤の花咲ける遣水のほとりにて、かれこれ大御酒たうべけるついでに」と藤花の宴で詠んだ歌などが伝わる。息子に44朝忠がいる。