[31]朝ぼらけ有明の月と見るまでに吉野の里に降れる白雪(坂上是則)
(訳)夜がしらじらと明けはじめるころ、有明の月の光かとみるほどに、吉野の里に雪が降り積もっていたよ。
94「み吉野の」の本歌「み吉野の山の白雪積もるらしふるさと寒くなりまさるなり」(訳は94参照)を詠んだ是則の一首。古今集の時代、吉野といえば雪深いというイメージができあがり、実際に吉野の地に行かずとも多くの歌人が雪との組み合わせを詠んだ。また、月明かりと雪の見立ても漢詩の世界ではよくあるもので、24菅原道真が11歳の時に初めて作った詩は「月の耀くは晴れたる雪の如し(月耀如晴雪)」で始まる。35紀貫之には「夜ならば月とぞ見まし我が宿の庭白妙に降れる白雪(夜だったら月と見ることだよ。我が家の庭一面真っ白に降り積もった雪は)」と詠んだ屏風歌がある。だが出典の古今集・冬の詞書には大和の国に行った時の歌と明記する。94の本歌ともども実際の吉野の雪をうたったもの。古今集には吉野の山や里を詠んだ歌が18首あるが、現地で詠んだとはっきりわかるのは是則の二首のみ。冷え込みの厳しい明け方に見たのは一面の雪景色。雪が降り続き静寂の中にあった吉野の里を前に、現実でも雪が月明かりのように見えたと感慨をこめる。
是則は、平安時代初期の蝦夷討伐で知られる坂上田村麻呂の末裔。宇多上皇主催の亭子院歌合や醍醐天皇の催した内裏菊合などで活躍する。子の望城は「梨壺の五人」のひとりとして第二勅撰集『後撰和歌集』撰集に携わる。