[33]ひさかたの光のどけき春の日にしづ心なく花の散るらむ(紀友則)
(訳)こんな日の光ののどかな春の日に、どうして落ち着いた心もなく桜の花は散っているのだろう。
前半では状況を素直に詠じ、後半になると「しづ心なく」と桜を擬人化して問いかける。かといって答えを求めるわけでも、散ることをなじるわけでもない。「のどけき」の余韻がひびいて、静かで、ずっとながめているとうつらうつらしてしまいそうな穏やかな光景が広がる。友則の年少のいとこである35紀貫之は古今集に「どうせ散るのだったら初めから咲かないわけにはいかないのかね。桜の花は見ているこっちまで落ち着きがなくなるよ(ことならば咲かずやはあらぬ桜花見る我さへにしづ心なし)」と、友則と同じことばを使った歌を残している。どちらが先に詠んだのかはわからないが、「我」を強調する貫之の方が「しづ心なし」の思いが前面に出る。比べると、眼前の光景を素直に受け入れる年長者友則の余裕を見るようだ。二人とも古今集の撰者であったが、友則は完成を見る前に亡くなり、彼を悼む貫之の歌が古今集に収まる。
そしてもう一首、ことばを共有する歌がある。17在原業平の「もし世の中に桜がなかったとしたら、春の心はどんなにのどかであっただろうのに(世の中にたえて桜のなかりせば春の心はのどけからまし)」という、逆説的に桜の存在の大きさを詠んだ歌だ。友則が、この下の句を承けてうたい出したように思えてくる。