[44]逢ふことのたえてしなくはなかなかに人をも身をも恨みざらまし(中納言朝忠)
(訳)逢うことがまったくないのだとしたら、かえってあの人の冷たさや我が身のつらさも恨んだりはしないのに。
960年3月30日、内裏清涼殿西廂の間は、左方には赤を基調とした、右方には緑を基調とした衣装の女房たちが並び、ほのかな緊張感をたたえながらも華やいだ空気に包まれていた。正面の州浜にはそれぞれの陣営が前もって依頼した歌人から提出された色紙が置かれる。歌を詠みあげる朗詠の名手・源博雅の姿もある。左右の歌の優劣を決める判者は左大臣・藤原実頼、補佐には大納言・源高明がつく。奥には村上天皇が控え、歌合の全容を見届けようとしている。歌合は、この年の元号にちなんで「天徳内裏歌合」と呼ばれ、当時史上空前の規模と準備をかけて行われた。後代には歌合の規範として仰ぎ見られることになる。この晴の歌合に「恋」題で提出した一首。
「逢う」という前提があるから、逢えずにいると相手を悪く思ったり、逢えない自分をつらく思ったりしてしまう。いっそのこと「逢う」なんてなければこんな思いはしないのに、という。思いを通わせ合う前の、恋のはじめの気持ちを詠んだもの。この段階のことを「未だ逢はざる恋」という。一方で、すでに逢った後でなかなか逢えなくなったときの心情を詠んだ歌とする解釈もある。「逢ふて逢はざる恋」という。恋歌の世界は奥深い。歌合では「詞きよげなり」と評価され勝ちとなった。