40 河原院、その後

[47]八重葎しげれる宿のさびしきに人こそ見えね秋は来にけり(恵慶法師)

(訳)雑草の生い茂ったこの宿の寂しさに人の訪れはないけれど、秋だけはちゃんとやって来たことだ。

 

 895年に源融が没してから6070年後の平安中期、荒れ果てた河原院にはその風流を求めて人びとが集まるようになった。百人一首に名の見える歌人では恵慶のほかに、40平兼盛、42清原元輔、48源重之、49大中臣能宣、51藤原実方がいる。しばしば歌会や歌合などを催し、さながらサロンのような感じであったと評価される。恵慶の家集によると、晩秋に差しかかった95日、紅葉を愛でながら「旅の雁」「夜の嵐」「荒れたる宿」「草むらの虫」「深き秋」といった題で歌を詠み合ったうちの一首。秋は「飽き」に通じて別れの季節であり、23大江千里が「月見れば千々にものこそかなしけれ」とうたったように物悲しい季節でもある。「秋は」と秋を擬人化することで、姿の見えぬ人と対比させ、存在を際立たせる。誰も顧みないこの地に秋だけは忘れずにやって来るのだが、果たして歓迎すべき訪問者であったか。秋がもたらす物悲しさを思うと、「さびしき」にさらにさびしさが加わり、いよいよ荒涼感が深まっていくようにも感じられる。

 

 恵慶は河原院を「草が生い茂ったので庭は荒れて年月が経ったが、この地を忘れないものは秋の夜の月であったよ(草茂み庭こそ荒れて年経ぬれ忘れぬものは秋の夜の月)」とも詠んでいる。荒涼感を受け入れ、この地をいとおしむ思いが伝わる。

暁星高等学校教諭 青木太朗