49 時代を超えた返歌

松島(宮城県)

[90]見せばやな雄島の海人の袖だにも濡れにぞ濡れし色は変はらず(殷富門院大輔(いんぷもんいんのたいふ)

(訳)見せたいものです。あの松島の雄島の海人の袖でさえも波にさんざん濡れているけど色は変わらないというのに。

 

 「ばや」は自らの願望を表わす終助詞で「~たい」と訳す。見せたいのは私の袖。あんなにぐっしょりと濡れた漁師の袖でも色は変わらないのに、私の袖の色は変わってしまいました、と訴える。私の思いの方があなたよりもまさっているというのだ。恋歌で袖の色が変わるとは、血の涙で紅に染まることをいう。泣き尽くして涙が枯れるとその代わりに血が涙となって流れるという発想で、漢語「紅涙」の翻案。古今集以来詠み継がれた恋歌での常套表現で、思いの激しさや強さを喩える。ここでは、それを血とも涙とも泣くとも言わず、ひたすら相手の想像力に訴えている。48源重之の代表歌「松島や雄島の磯にあさりせし海人の袖こそかくは濡れしか(松島の雄島の磯で漁をしていた海人の袖こそが、私の袖と同じようにこんなにも濡れていたのですよ)」を念頭に置き、その涙にくれる男への返歌という形で詠んだ一首。涙の量で競い合わず、待つつらさを色に喩えるところが心憎い。

 

 大輔は、後白河院の皇女で89式子内親王の同母姉・亮子(りょうし)内親王(殷富門院)に仕えた女房。85俊恵法師の主宰する歌林苑の有力歌人で、86西行、87寂蓮、97定家、98藤原家隆らとの交流が知られる。女流歌人として、92二条院讃岐や新古今集で高い評価を得た小侍従と並び称された。

暁星高等学校教諭 青木太朗