[92]我が袖は潮干に見えぬ沖の石の人こそ知らね乾く間もなし(二条院讃岐)
(訳)私の袖は、潮が引いた時にも見えない沖の石のように、知る人はいないけれども乾く間もなく涙でぬれ続けているのですよ。
多賀城市の「末の松山」からしばらく下ると「沖の石」がある。池の中から姿を現した奇岩で芭蕉はここにも立ち寄っている。名の由来は諸説あるようだが、この歌にちなむ名勝が古くから知れわたり、現在に至るまで大事にされている。この歌が長い間人びとに愛され続けていることを物語っている。
二条院讃岐は、打倒平氏を呼びかけ挙兵した源頼政の娘である。頼政は歌人としても高名で、源平争乱が一段落した1188年成立の第七勅撰集『千載和歌集』には14首も選ばれている。その父親の才を十二分に引き継いだのが讃岐だ。はじめ二条天皇、後に後鳥羽院の中宮・宜秋門院任子に仕え、後鳥羽院主催の歌合を中心に活躍する。このころ、和歌は題詠の時代であった。与えられた題をどう受け止めて歌にするのかに、歌人としての力量が問われた。題も一筋縄ではいかぬものが多い。この歌の題は「石に寄する恋」。風、雲、雨、月などといった天象や、あるいは動植物を引き合いに出して恋の気持ちを詠むことは珍しくないが、何ら姿を変えない石になぞらえて詠むのは難しい。それを、「沖の石」という目に見えぬものに注目したところが高く評価されたようだ。後世、彼女は「沖の石の讃岐」と呼ばれるようになる。