[95]おほけなく憂き世の民におほふかなわがたつ杣に墨染の袖(前大僧正慈円)
(訳)身のほどを過ぎて、憂き俗世の人たちに覆いかけることよ。私の立っているこの比叡山に住みはじめた墨染の袖を
比叡山の根本中堂を建立するときに開祖・最澄が「最高の知恵をもった仏たちよ、私の立つ杣山にご加護を与えてください(阿耨多羅三藐三菩提の仏たちわがたつ杣に冥加あらせよ)」と詠んだことから、「わがたつ杣」は比叡山をいう。76忠通の息子で、11歳で比叡に入山し13歳で出家した慈円はいずれ最高位である天台座主に就くことが運命づけられていた。1155年生まれの慈円が作歌活動を始めたのは20歳ごろ。評価は高く1188年成立の千載集に既に9首入集。その中のひとつで遅くとも30代前半に詠んだもの。「墨染の袖」は僧衣のことで、「住み初め」を掛ける。袖を「憂き世の民」に覆いかける、という大胆なうたいぶりには、自らの置かれた立場の自覚、また使命感にあふれたみずみずしさや力強さがあらわれている。83俊成は「はじめの五文字より心おほきにこもりて、末の句までいみじくをかしく侍る」と初句から末句まで真情のこもったものと評価する。
この歌から間もなくの1192年に天台座主に就き、以後四度その任に当たる。歌人としての評価も高く、新古今集には西行の92首に次ぐ91首が入集。史論『愚管抄』の著者でもある。1225年没。没後慈円の歌を集大成した『拾玉集』には5800を超える歌を収める。定家の歌が4000に届かないことと比べるとその多さに驚かされる。