67 六歌仙のひとり、実態は

[08]我がいほは都のたつみしかぞ住む世をうぢ山と人はいふなり(喜撰法師)

(訳)わが庵は都の辰巳(たつみ)、ほら、きちんと住んでいるよ。それを、世を(うれ)いた宇治山だと人は言っているようだ。

 

 喜撰のほか、12遍昭・17在原業平・22文屋康秀・9小野小町・大伴黒主の六人を「六歌仙」と呼ぶのは鎌倉時代になってから。古今集の仮名序では、位の高い人を除いた「近き世にその名聞こえたる人」と、近い時代にその名の聞こえた人とあるに過ぎず、評判が高い人とは言っていない。喜撰については「言葉微かにして、始め終わり確かならず」と、あいまいで首尾一貫せず、歌が多く伝わらないので結局よくわからないと断ずる。古今集にはこの一首があるのみ。他には鎌倉時代中期に編まれた勅撰集に一首見えるが、喜撰についてさまざまな伝説が広まった中での作者認定なので、信憑性に欠ける。

 

 辰巳は南東の方角で都からみると宇治のあたりになる。ここにちゃんと住まいを構えていますよ、と三句切れで言い切り、世を憂いたという世間の噂を一蹴する。歌末を伝聞「なり」で終わらせるところからは、どこか他人事で、噂を歌のネタにする余裕すら感じる。『源氏物語』の後半、「宇治十帖」の冒頭「橋姫」巻に「この宇治山に聖だちたる阿闍梨住みけり」と、喜撰を連想させる人物設定がある。宇治に隠棲した光源氏の異母弟・八宮が師事する高僧のモデルにされている。さらに八宮自身も「世を宇治山に宿をこそ借れ」と、世を憂い宇治山に宿を借りていると言い、皮肉なことに喜撰の否定した方が反映されている。

暁星高等学校教諭 青木太朗