24 紅葉といえば

[26]小倉山峰のもみぢ葉心あらば今ひとたびのみゆき待たなむ(貞信公)

(訳)小倉山の峰の紅葉よ、おまえに心があるのなら今一度の帝のお出ましを待っておくれよ。

 

 「百人一首」と呼ばれるようになるのは室町時代になってから。以前は「小倉山荘色紙和歌」と呼ばれた。この地に別荘を構える関東の有力武士・宇都宮蓮生の求めに応じて定家が色紙にしたためた歌という意味だ。そのゆかりの地を詠んだ歌。

 詠まれたのは907年とも926年ともいわれる。いずれにせよ、905年の第一勅撰集『古今和歌集』前後に盛り上がった和歌への関心が熱をもっていた時期だ。その中心にいたのが宇多上皇だった。在位中からしばし歌合を開催し、19伊勢や35貫之といった有力歌人を見出した。皇位を子の醍醐天皇に譲ってからも和歌活動への関わりは変わらず、むしろいよいよのめり込んでいく。この歌が詠まれるきっかけも上皇の小倉山への御遊だ。紅葉のすばらしさに、これは帝も行幸(みゆき)すべきだと言った。その旨を帝に伝えるために貞信公・藤原忠平の詠んだもの。歌末「なむ」については73「高砂の」で説明したように、相手への呼びかけ。紅葉の実際を言わずに、このままでいてくれと擬人化した小倉山に呼びかけることで、それがどんなに美しかったかを想像せざるを得ない仕掛けとなっている。

 

忠平は、早世した兄時平の跡を継いで藤原氏のトップとなり、晩年に太政大臣、関白に就く。道長につながる藤原摂関家繁栄の礎を築いた。政治家であっても一定レベルの歌が求められる時代だったのだ。

暁星高等学校教諭 青木太朗